はじめて読むひとは、ぜひ「その1」からお読みください
その十五 本来無東西 [菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙]
前章で「智も無く、また、得もなし[
つまり、
「得る所が無いから、
となるという解釈です。
学者によると、前の句につながるにしても、後の句につながるにしても、意味としては「
さて、ここから般若心経は内容としては、後半に入ります。———十五回もやってきたのに、まだ半分?とあきれる方もいるでしょうが、内容的には半分ですが、後半はあまり哲学的ではありませんからご安心下さい。
後半は「覚りを開くための智慧を身につけるとどうなるか」ということが論理的に説かれています。何だ、哲学的なことの後は論理的か…と難しく考えないでください。論理的とは「なぜトイレにいくのか、それは飲み食いしたからだ」という程度のものです。
菩提をもとめる菩薩
さて、ふつう私たちは菩薩といっていますが、これは略したいい方です。ここに出てくる
菩薩というと、とても偉い、尊い仏さまだと思いますが、じつは「覚りを求める人」という簡単な意味です。ですから、覚りを求めようとすればその人はもう菩薩です。
真言宗のお勤めの中に「オンボウジシッタボダハダヤミ」という真言があります。この真言は「
そうはいっても、なかなか自分が菩薩だなんて思えません。しかし、自分を菩薩だと思って一日をすごしてみてはいかがでしょう。
菩薩だったらどうする
トイレから出てくる時、スリッパを脱ぎっぱなしにする菩薩はいないでしょう。他の人をあざけ笑う菩薩もいないでしょう。「あの人より私のほうがお金がある」と自慢する菩薩もいないでしょう。渋滞の車の列で、無理な割り込みをする菩薩もいないでしょうし、割り込んできた車を自分の前に入れてあげない菩薩もいないでしょう。
このように「菩薩だったらこんなことはしないだろうな、こんな考え方はしないだろうな」と考えていくと、自分の心を邪魔するものが徐々に少なくなっていきます。晴々とした気持ちになっていくのです。
本来無東西
四国の弘法大師ゆかりの寺々を巡るお遍路さんの菅笠には、次の四句が書かれています。
迷故三界城(迷うがゆえに三界は城なり)
悟故十方空(悟るがゆえに十方は
本来無東西(ほんらい東西なし)
何処有南北(いずこにか南北あらん)
心が迷っているうちは、この世で生きていることが、まるで城壁で囲まれた城の中にいるようなもの(迷故三界城)なので、どこへ行っても壁にぶつかります。覚りを開くと、自分の心を含めた宇宙全体が何ものにもさえぎられることもなく、全てが真理そのものであることが分かる(悟故十方空)というのです。
よく、方角にこだわる方がいます。西のほうに旅行に行ってはダメだとか、お墓は西向きがいいとか———。
磁石を使って北を目指していくと、どこまで行くでしょう。そう、北極点です。これ以上の北はありません。では、北極点に立って、東はどちらの方向なのかといえば、東も西もありませんよね。だって、どの方向に足を一歩出したとしても、それは南に向かったことになるからです。
また、東京の人が西の大阪に行ってはいけないといわれたら、東京から東の成田へ。さらに東のアメリカへ、どんどん東へ行ってヨーロッパ。さらに東へ行って大阪に到着すればいいのです。
方角にこだわってしまうと結局どこにも行けません。先の例のように城壁の中にいるようなものです。自由がありません。
ものごとのありようを、偏見や先入観によって判断するのではなく、ありのままに