はじめて読むひとは、ぜひ「その1」からお読みください
その十六 恐 れをはなれて[無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究境涅槃]
さて、心に覆うものが無くなり、自由自在になると、恐怖心も無くなります。恐怖というのは必ず、オバケとか、(経験不可能な)死という対象があります。いいかえれば、オバケとか死に、心が捕らわれているわけです。そのとらわれが無くなったのが[
顛倒と夢想
さらに、そうなれば、本当のことをひっくり返したような(
私たちは他の人が成功すると、そのことで自分の価値が下がったように思ったり、あるいは他の人が失敗すると、それで自分の価値が上がったような気になることがあります。
本当は、他の人が成功しようと失敗しようと、自分の価値は左右されないはずです。しかし、他との比較をしないと気が済まない状態が、[
また、いま起こっていることを「そんなはずはない」と否定したり、「こうであったらいいのに」と考えるのは夢に似ています。これを[夢想]といいます。
昨日の天気予報では今日は晴れのはずだった。ところが、朝起きて見ると雨。いま雨がふっているにもかかわらず「天気予報によれば雨のはずはないのだが」とつぶやく…「晴れていればいいのに」と考えます。
しかし、今雨がふっているのに「この雨がふっていなければいいのに」と考えることは夢であって、現実を受け止めていません。
現実を受け止める
癌になった人は、まず「否定」という心の状態を通るといわれています。「そんなことはないはずだ。誤診に違いない」——そこで、他の病院で検査をやり直したりします。次に「取引」という状態、つまり癌になった辻褄合わせをしたくなるというのです。
「どうして癌になったのだろう。食べ物が悪かったのだろうか。遺伝だろうか」
癌になっているのに、こんなことを考えても意味はありません。
癌になった人がやらなければならないのは、「癌になった」という本当の現実を、まず受け止めることです。そして「どのような治療があるのか」を医師と相談し、自らがこれからをどう過ごしていくのかを考えるべきなのです。しかし、ともすると「癌にさえならなければ…」と考え込んでしまいます。
偉そうなことを書いていますが、私が癌になったら、すぐにその現実をありのままに受け入れられるか自信はありません。それは私がまだ「死」にこだわり、「痛み」にこだわり、「生活」にこだわっているからです。
そのこだわりがなくなった時、心は自由自在になり、なにものにも
このことを般若心経では、
「(心に)
[
といっています。
唱える場合には、クー・ギョー・ネーで切れる感じになります。そして「槃」は次の「三世」に付いて、ハン・サン・ゼーとなってしまいます。意味としては、こんなところで切れるはずはないのですが、仕方ありません。