はじめて読むひとは、ぜひ「その1」からお読みください
その四 ご都合通り[度一切苦厄]
「苦」、この思い通りにならないもの
仏教は、お釈迦さまが自分の抱えている苦しみを解決する方法は何か、そしてその苦しみの本質とは何かを考えたことからスタートしています。
その苦の代表が四苦といわれるものです。「生まれること」「老いること」「病になること」「死ぬこと」の「
このうち「老い」「病いになり」「死ぬ」ことが苦であることは、ある程度おわかりいただけるでしょう。しかし、どうして「生まれること」が苦なのでしょうか。
この「生まれること」を含めて、仏教でいう「苦」は、とてもはっきりした定義づけがあります。それは「思い通りにならないこと」なのです。
「苦」=「思い通りにならないこと」
です。
どの親の間に、いつ、どの性別で、何番目の子供として生まれるかは私たちの思い通りではありません。だから「生」は「苦」です。年老いることも、
私たちの日常を考えても「ああ、いやだ」と思うときは、必ず自分の思い通りにならない時です。その土台になっているのは、「思い通りにしたい」という気持です。「年はとりたくない」というのは「若々しくありたい」という私たちの「ご都合」が働いています。エゴといいかえてもいいでしょう。
しかし、般若心経で言えば(般若の智恵でものごとを観れば)「
天気も苦、人間のご都合じゃないものね
「生老病死」のほかに、私たちのご都合通りでない代表的なものに天気があります。旅をするのに足元が悪くなる雨は、にくい雨です。「晴れていて欲しい」という自分のご都合通りでない「雨」は「イヤな雨」という「苦」になります。
しかし、同じ雨が、花をつくっている方々にとっては、
久しぶりの雨を「いいオシメリですね」とにこやかに言う人もいます。
また♪雨雨ふれふれ、母さんが、蛇の目でお迎え、うれしいな♪の歌は、うっとうしい雨を楽しみな雨として受け取ることができる女の子の心情をみごとに表現していると言えるでしょう(いずれにしても、自分の思い通りにしたいということには変わりはないのですが……)。
そういうわけで[
「度」というのは「渡す」と同じ意味で、全ての苦しみやわざわいを彼岸の岸に渡してしまって、安らかな気持ちになったことを表します。私たちで言えば、ご都合通りにならないことを、仏さまに任せてしまうことと言ってもいいでしょう。
苦をなくす二つの方法
ところで、苦を苦と思わなくなるためには二つの方法があります。
それはあることが①「思い通りになった場合」と、あることを②「思い通りにしたいと思わなくなった」場合です。
年をとりたくないと思う人が、派手な服装をしたり、白髪を染めて若さを取りもどしたような気になることがあります。これが「思い通りになった場合」です。少なくとも外見上は若くなるので「老い」の苦がなくなります。
もちろん本当は外見を若くすることで、精神的に若いころの活気や柔軟性を取りもどすことを目標なのですが、石頭で精神的には活気がなく、外見ばかりで若返ろうとすると、いずれは「老い」に苦しむことになってしまいます。
もう一つの苦を除く方法は「年をとるのもまた良し」と「老い」を嫌がらないことです。これでも「老い」が苦でなくなります。
人間の歴史は①の「思い通りにしたい」歴史でした。とくに医学をふくめた科学は、この人間のエゴをかなえるための歴史でもあります。自然保護にしても、その根底にあるのは「人間が必要とする酸素をつくりだしているのは、杉の木なら何本分で、このまま森林
仏教は「思い通りにしたい」というのは、人間の
親子や嫁姑などの人間関係のもつれも同じでしょう。
ではどうすれば「思い通りにしたいと思わなくなる」かというと、それは物ごとの真実の姿を観察できる智慧があればいいというのです。その智慧が般若の智慧とよばれるものです。