はじめて読むひとは、ぜひ「その1」からお読みください
その二十 智恵とお節介
最後に、般若心経についてお大師さまの言葉をご紹介しましょう。
『般若心経秘鍵』
お大師さまは『般若心経
——それ仏法遙かにあらず、
「そもそも仏の教え(さとりの世界)は、遙か彼方にあるのではない。私たちの心の中にあって、まことに近いところにある。仏の悟りである真如は、私たちの外部にあるのでもない。
だから、我が身を捨ててどこにそれを求めることができるだろうか。本来迷いとか悟りとかは、自分自身の内部にあるのだから、悟りを求めようとする心をおこせば、ただちに悟りに到達できるのである。
従って、明るい悟りの世界、暗い迷いの世界も、自分をおいて他にないのであって、仏の教えを信じ実行すれば、悟りの世界は、たちまちに私たちの眼前に開けてくるのである。
ああ、哀れなるかな、哀れなるかな、真実の世界を知らずに眠れる者よ。ああ、苦しいかな、痛ましいかな、無明、煩悩に狂い、酔いしれている者よ。はなはだしく酔える者は、かえって酔わない者を笑い、はなはだしく迷いの眠りにあるものは、かえって目覚めた者を嘲っている」
これは、悟りということや、仏法ということが、決して机上の空論でもないし、言葉をあやつっているだけでもない、あなた自身の問題なのだということを、流麗な文章でつづった部分です。
さらに冒頭の三段目(大意序)の終わりで、般若心経の功徳について述べています。
——
「(このように般若心経の)一つ一つの音声と文字には、無量の義と理がふくまれており、無限に近い長い時間、論談しても尽きることがない。また、その一つ一つの名称と実体の意味することは、広大、甚深であり、無量の仏といえどもこれを究めつくし、説き尽くすことができない。このようなことから、この『般若心経』を読誦し、講義し、供養すれば、仏の慈悲により、生きとし生けるものの苦しみを除き、精神的な安らぎを与えることができる。さらに、この経を習いおさめて、思惟すれば、悟りを得て、神通力を起こすことができる。この経が、意味がはなはだ深いとたたえられるのは、まことに当を得ているのである」
そして真言についての解釈の中(秘蔵真言分)の中で、真言の効能について詩の形式で説いています。
真言不思議 観誦無明除 一字含千理 即身證法如
[真言は不思議なり
——仏の内なる悟りの世界を示す真言は、修行中の人にとっては、不思議なものである。しかし、本尊を観想しながら唱えれば、根源的な無知の闇を除くことができる。この真言の一字一字には、無量百千の道理が含蔵されており、この真言の妙力により、この身、このまま、如来の智慧(真如)をさとることができる——
智慧と慈悲
般若心経は智慧についてのお経です。ですから、般若心経の中では、仏教のもう一つの柱である慈悲について何も具体的にいっていません。つまり、やさしさとか、いたわりといった、他への共感については説いていないのです。このままですと、ものごとを冷静に、ありのままに見るクールな態度を勧めているかのようです。
お大師さまがおっしゃっているように、迷いや悟りも、全てはすでに私たちの中にあります。つまり慈悲というものも、すでに私たちの中にあります。他へのいたわりや、やさしさというのは、おそらく理屈では導き出せない感情なのでしょう。
いったい、般若心経でいう智慧と慈悲の関係はどうなっているのでしょうか。
最後に私の父の残してくれた文章をご紹介して、お話しを閉じたいと思います。
おせっかい本能こそ慈悲 名取盛雄
お節介は教えられてできるもんじゃない
持って生まれた人間社会の潤滑油で
いわば仏性そのものだ。
でしゃばり、おせっかい、
すぎれば 世の中 ぶちこわす。
そこで報恩、四恩の教えがタガをかける。
大日如来とは、おせっかいの総元締め。
即ち「大慈」とはおせっかいをいう。
行き過ぎをコントロールする智恵を
「大智」という。
人間皆この分身を生まれながらに持つ。
- 了 -
「……なんだそうだ、般若心経」
平成十一年四月 名取芳彦