はじめて読むひとは、ぜひ「その1」からお読みください
その十八 真言[故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚故]
真言は仏さまとの合言葉
合言葉というのがあります。知らぬ同士が、何かのつながりがあることを確認する時につかう合図です。「山」…「川」。これで相手が仲間であることがわかります。
他の人が聞いていても、ほとんど意味は通じません。もちろん「山」といえば、山のことですが、それに呼応する言葉が「川」であることは、その仲間にしか分かりません。
真言というもの、合言葉なんです。この場合、私たちが確認したい仲間は仏さまです。そして、仏さまを仏さまたらしめている力(これを法といいます)も人格化して、仏さまといいます。その両方の仏さまとの合言葉が真言です。
……らしい
ここで少し脇道にそれて「法」について触れておきましょう。
格言に「父親になることは難しくない。しかし、父親であることは難しい」というのがあります。この後半の「父親であること」というのは、父親を父親たらしめている要素のこと。「父親らしい態度や言葉づかい来や考え方を持っている」ということです。これが先ほどの「法」にあたります。それがなければ、単なる「精子提供者」でしかないでしょう。この父親を父親たらしめている要素の集まりを「父性」とか「父親像」といっていますよね。仏教ではこれを「法」といいます。——(その十三)でもこの「法」ついてふれておきました。
先のお遍路さんの例でいえば「お遍路さんになることは難しくない。しかし、(仏の弟子として、修行者としての)お遍路さんであることは難しい」ということになります。
陀羅尼
話を真言に戻しましょう。真言という言葉は、もともとの梵語では「マントラ」といいます(マンダラとは違います)。「真言」のほかに「呪」とも訳されます。このマントラの長いものをダーラニー(陀羅尼)といいます。「愛してるよ」が呪、「ああ、君は僕の太陽だ、月だ、星だ。君は僕の命だ」が
ふつう真言というと、梵語そのままの言葉を表します。これは、その言葉と発音そのものに、不思議な力があると考えられているためです。日本語では
雷がゴロゴロ鳴り始めると、昔の人はよく『クワバラ、クワバラ』と呪文を唱えていました。クワバラというと雷が落ちないと信じられているからです。語源をたどってみれば、むかし桑原という場所があって、不思議にもその土地には雷が落ちなかったので、「(ここは)桑原、桑原(だよ)」というと、雷が「それでは、落ちるわけにはいかない」と思ってくれるというのです。これぞ言霊です。その言葉自体に力があるのですから。
このように、言葉そのものに力があるので、あえて訳すことをしなかった、あるいは翻訳不可能な言葉が、真言として伝えられています。
阿吽の呼吸と仁王さま
「ア」という言葉があります。日本語の五十音も「ア」ではじまりますが、もとはインドの発音表で、お大師さまが日本に伝えたといわれています。この「ア」は仏教では、全てのはじまりを表す言葉でもあります。「ア」という言葉があってはじめての言葉が成立します。「あ、か、さ、た、な、は、ま、や、ら、わ」の音を延ばせばよく分かるとおり、全て「ア」が含まれています。そして、それぞれの言葉からその下の音が生まれてくると考えられます。「カ」から「キクケコ」が生まれてくるわけです。
それらの言葉の終わりが「ン」です。書き方によっては「ウン(このウは口を閉じて発音します。馬[んま]とか梅[んめ]の発音です)」となります。
もうお気づきのように、「
仁王門のお仁王さまも「ア」と「ウン」を発音しています。初めから終わり、つまり「全て」を表しています。仁王門の仁王さまは「この門をくぐったお寺には、全宇宙に遍満している法が凝縮しているのだぞ。心して門をくぐれ」といっています。
あるいは「私たちの誕生から死という人生を通り抜けた気持ちで、本尊さまにお参りしなさい」と
いつわりのない言葉
般若心経では「だからわかったでしょう——故に知りぬ[
「(今まで長々と述べてきましたが、覚りに至る智慧という意味の)般若波羅蜜多は、真言つまり呪文で表せるのだ。それは大きな覚りの呪だし[
原文の書き下しでは、
「
皆さんが
[
ここで、誤解をさけるために、書き添えておくことがあります。意味からすれば、まるで般若波羅蜜多(パンニャーパーラミター)が真言であるようにとれますが、これは「覚りに至るための智慧は、真言で表せるのだ」ということです。
そして、「その真言は、全ての苦しみを除いてくれる。なぜならその真言は真実そのもので、どこにも偽りがないからだ」と続きます。
「
[
「南無大師遍照金剛」も「南無阿弥陀仏」も「南無妙法蓮華経」も、自分の本当の気持ちを込めて、真実で偽りがなければ、その意味では真言といえるでしょう。