はじめて読むひとは、ぜひ「その1」からお読みください
その二 あなただって観音さま[観自在菩薩行深般若波羅蜜多時]
このお経の主人公
本文262文字という短い般若心経ですが、それでもこのお経は物語り形式になっています。
まず、この話し手は仏さまです。経題に「仏説」とありますからね(お経はいつの時代に書かれようと「お釈迦さまがおっしゃった(仏説)」ではじまることになっているので、暗黙の了解として「仏説」を省略した般若心経もあります)。
では、その物語りの主人公はだれかというと、最初に書いてある「カンジーザイボーサー」、つまり「
次に聞き役がいます。それが「シャーリーシー」、つまり「
さて、物語りは
「
皆さんが
[
と唱えている所です。具体的にどんな修行をしたのかは書いてありません。何といってもエッセンスのお経ですから、あまりこまかいことにはふれていないのです(具体的な修行方法についてはあとがきでふれます)。
二元論から四元論へ
さて、観自在菩薩という仏さまについてふれておきましょう。「観自在」とは「(色々なものを)観察することが自在である」ということ。自在という言葉は、何ものにも邪魔されないということです。思い込みや、自分の欲などが入り込まない見方ができるということです。
「お金持ちは幸せで、貧乏は不幸である」と思い込んでいる方はいないでしょうか。その思い込みから「幸せになるためにお金持ちになりたい」と、自分の欲が入り込みます。「幸せになりたい」ということは良い願いです。しかし幸せになるための手段である「お金持ちになる」ことだけで、「幸せになる」という願いをかなえようとすると、お金にふりまわされしまうことになりかねません。つまり幸せになるという本当の目標がぼやけてしまって、お金持ちになる!という手段が目標になってしまうのです。
たしかにお金持ちで幸せな人もいるでしょうが、お金持ちで不幸な人もいます。
逆に貧乏で不幸な人もいますが、貧乏で幸せな人もいます。
ですから「お金持ちは幸せで、貧乏は不幸である」は、かたよった見方ということになります。この、
- お金持ちは幸せである。
- 貧乏は不幸である。
という二つしかない見方を二元論といいます。ともすると私たちは二元論ばかりでものごとを見ようとしていまいます。しかし、これに、
- お金持ちで不幸な人もいる。
- 貧乏でも幸せな人もいる。
という見方が加わると、四つの見方になるので四元論になります。こういう見方を「観察すること自在」、つまり「観自在」というのでしょう。いい方をかえると、
観音さまは、とにかく思考が柔軟で、何ものにもとらわれない、自由自在な見方ができる仏さまです。別名の「
しかし、仏教は、はるか
あなただって観音さま
自分が仏になる…自分が観音さまになる…そんなことができるのか?とお思いですか。それがちゃんとできるのですよ。
こんな話しがあります。
さて、この安居院には、めったに花をつけないことで有名な椿がありました。この椿がある時、めずらしく花をつけたのです。
そこで和尚さんは、その一枝を折って、小僧さんを呼んでいいました。
「めったに咲かない椿が咲いたから、ご苦労だが、宗旦さんのところへ持っていって、茶室に活けてもらいなさい」
だいじな椿をもって宗旦さんのところへ急いだ小僧さんですが、運悪く途中で転んでしまって、花がとれてしまいました。
「どっ、どうしよう……『届けました』と知らん顔をしてしまおうか……でも仲良しのお二人のことだから、すぐ本当のことが分かってしまうだろう。それに嘘をつくことはいけないことだから…」と、小僧さんは宗旦さんのところへ行って、ことの
「そうですか。それは残念なことをしました。でもあなたにお
少し間をおいて、何か思いついたように宗旦さんはつづけました。
「そうだ、今日はとてもいい日だから、ご住職にお茶を一服さしあげましょう。小僧さん、ご苦労さまですが、寺へかえったらそう伝えてください」
小僧さんはビックリしました。和尚さんを呼んでくれば、自分が椿を台無しにしてしまったことがわかってしまうからです。
でも、宗旦さんのいうことなので、仕方がありません。寺にもどっていいました。
「あのぉ、宗旦さんがお茶を一服さしあげたいから、これから来てほしいとのことでございます…」
和尚さん、ニコニコして、宗旦さんの茶室へ出かけました。
宗旦さんは、やってきた和尚さんを迎えました。
「さあ、どうぞお上がりください」
茶室に入ってビックリしたのは和尚さんです。先ほど小僧に持たせた椿……。たしかに床の間に活けてあるのですが、それが枝だけなのです。花は床に落ちてしまっています。
ウームと考えた和尚さん。やがて目をキラリと輝かせて、
「なるほど、じつにみごとですね」
といいました。
それを聞いた宗旦さんは、にっこり
「ありがとう存じます」
と
見 ると観 る
この話のいわんとするのは、
「その床の間にはポトリという音が、みごとに活けてあった」ということなのです。
椿の花が落ちる音をポトリと形容します。
私たちは、音は聞くものと思っていますが、この二人のように、心のアンテナをじょうずに張ると、音だって見ることができるのです。いや、こういう時には「見る」ではなく「
「音を観る」——これが観音さまです。だとすれば、私たちも観音さまになることができるはずです。
心のアンテナ
自然の中や、多くの人々が祈りをささげてきたお寺の境内などは、私たちが心のアンテナを張りやすい環境がととのっています。
心を澄ませると、アンテナがたくさん張れるようになります。そして、そのアンテナは色々な方向に向けられるようになります。
高感度のアンテナを、さまざまな方向に向けて張っているのが観音さまです。
その観音さまが主人公のお経——それが、般若心経です。