はじめて読むひとは、ぜひ「その1」からお読みください
その七 カボチャはいつ死んだか[舎利子是諸法空相不生不滅]
こだわるな
さて、お釈迦さまは「舎利子よ」という二度目の呼びかけをして、次のように続きます。
「
相は人相、手相の相。ありさま、様子、性質を持つという意味です。
(すべての本当のありようは,
ここから「こだわるな」という教えが出てきます。こだわっても、ものごとは刻々と変化しているのだから仕方がないではないか、それよりも縁が熟している今一瞬を大切にしなさいというのです。
そして、お釈迦さまはより具体的な話しをはじめます。
「ものごとは『生じる』こともなければ『滅すること』もないのだ」というのが、
[
これはなかなか納得できませんね。私たちは実際に生まれ、死ななければなりません。つまり私は「生じた」し、「滅する」ではないかといいたくなります。
たしかに、現象としてみると、命あるものは生を受け、そして百パーセントの確立で死んでいきます。
般若心経でいう「
縁があって生じ、そして縁があって滅していきます。そして滅すること自体が一つの縁になって、また何かが生じていきます。
価値の変換
カボチャの天ぷらを例に考えてみましょう。
食事にカボチャの天ぷらが出たとします。さて、いったいこのカボチャはいつ死んだのでしょう。——少し変ないい方ですが、カボチャも命ですから死んだといってもいいでしょう——いくつかの答えを並べてみます。
A「そりゃ、畑で
B「いや、それじゃまだ死んでない。包丁で二つに切られた時だ」
C「いや、まだまだ。油であげられた時、さすがのカボチャもお陀仏……」
ここから、考え方が変化します。
D「でも、この天ぷらは食べられるためにここにあるのだから、私がこのカボチャを食べた時に、めでたく成仏だ」
E「でも、それでは食べ残しのカボチャは、死んでも死にきれいなことになる」
F「その時は肥料になって、他を生かすことになる。そこでようやくお
G「そんなことをいったら、たとえ私がカボチャを食べたって、それが私を生かすことになるではないか」
H「なんだ、他の命を生かすということを考えれば、他の命の中で生き続けることになって、カボチャはいつになっても死なないではないか……」
———ものの見方をかえる(価値観を転換する)と、生じ滅していたものが、生ぜず滅せずになります。これが、
ちなみにこのエピソードは密蔵院で起こった実話です。